2013年 08月 20日
脳みそぴーりぴり |
「なぜ私たちは、喜んで『資本主義の奴隷』になるのか」をよんだ。
資本主義という経済体制への「自発的隷従」は長らく私の勉強のテーマでもあった。
政治哲学では資本主義体制が確立する以前、中世末期にラ・ボエシが「自発的隷従論」を発表し、古くはキケロが紀元前「奴隷はその状態が長く続けば互いの鎖を自慢しあうようになる」と述べている。
現代、新自由主義が深化した中、労働者に何かをさせる権力を欲望として傾注した結果、労働者は「自己実現」や「やりがい」といった内面的充足感を見出し、「喜び」とともに自発的隷従状態を甘受している。
スピノザによって「欲望が善」として働くと提言された通り、この資本主義の進化形態である新自由主義によって、資本の自己増殖という超利己的欲望が肯定されている。この中に自動機械として組み入れられた現代の労働者は経済の調整弁としての機能を担わされているにもかかわらず、超利己的欲望の代行者として能動的に賃労働による自己実現を図っている。資本にとってこれほど都合のいい支配はないだろう。価値の定まらない欲望のベクトルをコントロールできるのだとしたら。
こうした苦境に関する処方箋を考えるうえで、なぜ起こるのか?について理論的に解説されたのが本書である。経済の解説書にしては比較的よみやすいのではないかと思う。またエッセンスとしての欲望の哲学がマルクス理論と相互補完しあい、非常に奥行きの広い内容となっている。
非正規雇用の労働者ならびに正規雇用経験者であれば、本書で述べられた資本の志向性というベクトルに我々が組み入れられる様を、容易に経験的例示・体験によって想像できるのではなかろうか。
絶えずある大量解雇への不安、渦中でもがかなければ、支配に屈しなければ解雇つまりそこには「死」という最大のペナルティが待っているという事実がある。また消費行動への渇望も一つの隷属の理由として意味を持つ。しかしそれだけでは支配への隷属に対するインセンティブとして不十分であり、実感として納得できない部分も多い。そこで精神の所有が現れる。
自らの隷従状態としての主体性に対する認識が、自らの意識の中の主体と分離している状態に対し、賃労働という活動そのものに内在する欲望に気付くことは非常に困難だろう。そしてその状態に並行して消費者としての自己の欲望、すなわち消費する喜びの渦中の自己認識が従来通り存在している。低価格の商品を購入する際、低価格商品によりいかに過酷な搾取が行われているかどうかがあまり連想されないのも、そうした隷属と消費・搾取の認識の結合が図られていないからかもしれない。
現実と結合した認識、欲望する精神の所有が成立するのも、資本の情動の多様性ゆえである。従来の労使関係という二極構造よりもさらに複雑化した支配関係が、資本を同心円にして末端労働者まで波及している。消費者としてのアイデンティティから労働者としてのアイデンティティ、貨幣を獲得することが楽しくて仕方ないという情動は「目的なき欲望」をキャッチしているのだ。
その中自己実現や労働そのものへのやりがいを感じ希求することは、ある意味擬制の幸福、満足をわれわれにもたらせているのかもしれない。従って逆境認識が得難いことも納得できる。反乱者としての仲間を集めることが困難な状況も理解できてしまうのだ。
しかしそこでキーワードとして持ち上がるが「いき辛さ」だ。
現代の若者が「幸福」かどうか、古市氏はこれを肯定しているが、20代までの若者死亡原因の一位が自殺であり、自己肯定感が著しく低いことからも、擬制の「幸福」に意識的にしろ無意識的にしろ疑問と苦しさを抱えていると思えるのだ。
社会生活の中で生存する人間の欲望は他律的である。「強制された協力」という逆説的状態は他律された欲望への認識の欠如から生まれるのかもしれない。となると、大いなる利己的欲望というエネルギーへの処方箋は、やはりオルタナティブを追求する欲望であり、私自身他律的な外因の一要素として働きかけることができるのではないかと、おこがましくも考えてしまうのである。
時間が来たのでこのへんで。
続きはまた近々書きます。
(ち)
資本主義という経済体制への「自発的隷従」は長らく私の勉強のテーマでもあった。
政治哲学では資本主義体制が確立する以前、中世末期にラ・ボエシが「自発的隷従論」を発表し、古くはキケロが紀元前「奴隷はその状態が長く続けば互いの鎖を自慢しあうようになる」と述べている。
現代、新自由主義が深化した中、労働者に何かをさせる権力を欲望として傾注した結果、労働者は「自己実現」や「やりがい」といった内面的充足感を見出し、「喜び」とともに自発的隷従状態を甘受している。
スピノザによって「欲望が善」として働くと提言された通り、この資本主義の進化形態である新自由主義によって、資本の自己増殖という超利己的欲望が肯定されている。この中に自動機械として組み入れられた現代の労働者は経済の調整弁としての機能を担わされているにもかかわらず、超利己的欲望の代行者として能動的に賃労働による自己実現を図っている。資本にとってこれほど都合のいい支配はないだろう。価値の定まらない欲望のベクトルをコントロールできるのだとしたら。
こうした苦境に関する処方箋を考えるうえで、なぜ起こるのか?について理論的に解説されたのが本書である。経済の解説書にしては比較的よみやすいのではないかと思う。またエッセンスとしての欲望の哲学がマルクス理論と相互補完しあい、非常に奥行きの広い内容となっている。
非正規雇用の労働者ならびに正規雇用経験者であれば、本書で述べられた資本の志向性というベクトルに我々が組み入れられる様を、容易に経験的例示・体験によって想像できるのではなかろうか。
絶えずある大量解雇への不安、渦中でもがかなければ、支配に屈しなければ解雇つまりそこには「死」という最大のペナルティが待っているという事実がある。また消費行動への渇望も一つの隷属の理由として意味を持つ。しかしそれだけでは支配への隷属に対するインセンティブとして不十分であり、実感として納得できない部分も多い。そこで精神の所有が現れる。
自らの隷従状態としての主体性に対する認識が、自らの意識の中の主体と分離している状態に対し、賃労働という活動そのものに内在する欲望に気付くことは非常に困難だろう。そしてその状態に並行して消費者としての自己の欲望、すなわち消費する喜びの渦中の自己認識が従来通り存在している。低価格の商品を購入する際、低価格商品によりいかに過酷な搾取が行われているかどうかがあまり連想されないのも、そうした隷属と消費・搾取の認識の結合が図られていないからかもしれない。
現実と結合した認識、欲望する精神の所有が成立するのも、資本の情動の多様性ゆえである。従来の労使関係という二極構造よりもさらに複雑化した支配関係が、資本を同心円にして末端労働者まで波及している。消費者としてのアイデンティティから労働者としてのアイデンティティ、貨幣を獲得することが楽しくて仕方ないという情動は「目的なき欲望」をキャッチしているのだ。
その中自己実現や労働そのものへのやりがいを感じ希求することは、ある意味擬制の幸福、満足をわれわれにもたらせているのかもしれない。従って逆境認識が得難いことも納得できる。反乱者としての仲間を集めることが困難な状況も理解できてしまうのだ。
しかしそこでキーワードとして持ち上がるが「いき辛さ」だ。
現代の若者が「幸福」かどうか、古市氏はこれを肯定しているが、20代までの若者死亡原因の一位が自殺であり、自己肯定感が著しく低いことからも、擬制の「幸福」に意識的にしろ無意識的にしろ疑問と苦しさを抱えていると思えるのだ。
社会生活の中で生存する人間の欲望は他律的である。「強制された協力」という逆説的状態は他律された欲望への認識の欠如から生まれるのかもしれない。となると、大いなる利己的欲望というエネルギーへの処方箋は、やはりオルタナティブを追求する欲望であり、私自身他律的な外因の一要素として働きかけることができるのではないかと、おこがましくも考えてしまうのである。
時間が来たのでこのへんで。
続きはまた近々書きます。
(ち)
by hiyowanatenshi
| 2013-08-20 14:26
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